2025.03.01

がんを先制(予防)する! 4)死の恐怖を先制(予防)する

船戸 崇史
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 さて、今までがんを先制すると題しまして、がんの初発予防、再発予防、進行予防と3段階のがん予防について見てきました。そして、今回はいよいよこの最後の章になります。
 私は開業してから30年、この期間だけでも2,000人を上回る命を見送らせて頂きました。そして、その経験を通して、間違いない事、それは人は必ず死ぬという事です。そして、もっと大事な事は、多くの人は最期の時を自覚してから、不安や恐怖を感じていない人はいないという事。つまり、「死=恐怖」はだれもが感じているという事なんですね。そうです、「死の恐怖」とは「本能」なんですね。
 同時にそう感じているからこそ、そこから逃れたい一心で医学が発展してきたとも言えます。すべからく西洋医学は苦痛症状を緩和し、できるだけ死を回避できる方法論として発展してきました。これは死にたくない我々にとって当然の事ですね。逆に言えば、この西洋医学の長足の進歩は根底に「死にたくない」という「死への恐怖」という本能があったお陰だったとも言えますよね。死の恐怖こそが、医学を発展させた大きな原動力でありながら同時に最も私達の最期を苦しめてきた元凶でもあったと言えるのではないでしょうか?
 この「死の恐怖」が先制されれば、私たちの最期はもう少し安楽に送れるのかもしれません。そもそも一体なぜ「死」に「恐怖」を感じてしまうのでしょうか?
 そこで「がんを先制する」の最後のテーマは「死の恐怖を先制する」です。(図1)


図1 死の恐怖を先制するとは

この「死への恐怖」を先制する事、これこそが「がんを先制する」最も根源的なテーマになり得ると思い最終回のテーマとしました。
 いろいろご意見はあると思いますが、以下は飽くまで船戸の一考察にすぎませんので、(今までもそうですが)供覧いただけましたら幸いです。

死の恐怖とは何か?
 さて、がんに限らず生きづらさは人生の質を落とします。生きづらさとは苦痛、困難、挫折、失敗、病気などですが、とりわけ「死」はその骨頂だと言われます。「がん=死」ではないと私自身も診療の現場ではお話してきましたが、いざ自分自身ががんになると「がん=死」であると思いましたから、思考と感情はどうも別ですね。しかも、我々はこの感情の支配が優位なので、すべき事ではないと分かっていても、したい事をしてしまう生き物ですから(ついやっちゃうタバコやスウィーツのように)、今回の恐怖という情動、本能とどう向かうかは思考レベルですが一度は見てみる価値はあるんじゃないでしょうか。
 人の「死」は皆さんの周りでも自然の風景です。しかし、そのほとんどは3人称(あの人)か2人称(あなた)で、1人称(私)の死を告げられた人は少ないのではないでしょうか?「死ぬよ」という直接的な表現ではなくとも、「余命*か月」とか「もう治りません」とか、「死ぬまで続けます」とか・・。しかし、「がん=死」という風潮が一般常識化している今、「あなたは**がんです」と言われるだけで「死」を予感させる言葉であり、図1で言うと、がんの初発前と後では「発がん」という点をもって心情は大きく変化していると予測できます。この点から「死の恐怖」を意識し始めるという事ですね。そうです、がん告知は初めての1人称の「死」の告知に匹敵します。「私死ぬの?」という事です。

ロス博士の死に至る5段階説から死を読み解く
 その後の人の心情変化はエリザベス・キュブラー・ロス博士の「死に至る5段階説」が有名ですね。これはがん告知後もほぼ同様の心の経過をたどると感じています。私自身もそうだったので。ロス博士は沢山の人の看取りを研究する中で、死の告知後、
⇒①拒絶、否定;そんなはずはない、間違いだ
⇒②怒り;なぜ自分なんだ?冗談じゃない
⇒③交渉;どうしたら治るんだ?治療法の模索、実施
⇒④抑うつ;結局治らない、もうだめなんだ
⇒⑤受容;自分だけじゃない、こういうことになっていたんだ
という心情が行ったり戻ったりしながら進むと言われています。
 この①~②の段階で、心の葛藤があります。「本当か?きっと夢だよ・・なぜ自分なの?なぜがん?どこが悪いの?・・死ぬの?死んだらどうなるの?・・」という事ですね。この自問自答こそが私はがんの効用で、初めて今の生き方(がんになる生き方)を止めて、本当で本来の自分のしたい事(使命?)に気が付く時ではないかと思っています。しかし、がん患者は
そんな心の余裕はなく、治せるのか?治るのか?死ぬのか?にしか関心がありません。私もそうでしたから。この治す方向に研究発展したのが西洋医学です。これは素晴らしい学問で、私は使わない手はないと思っています。しかし、間違いがありました。それは「治す=死なせない」という構図が作られて、これが「死=悪」の間違った信念の元凶となり「死なせない医療」として発展したのではないか?やはり死はタブーなんですね。人は死にたくないだけなのです。死は法則なのに。
 されど、最終的に死を受容していく姿があると言うのです。それは、③の交渉の時に様々治療します。しかし、改善しなかった人はついには「もうダメだ」と思う訳です。こうして④抑うつになります。この時に内面での葛藤が同時に死の受け入れ準備となります。そして、⑤受容へと入ります。勿論ここでも生きる希望がないわけではありませんが、生への執着は脱皮した感じです。上智大学の故アルフォンス・デーケン教授は「あの世の存在を信じる人」という条件下で、さらに⑥段階として「希望」があると言います。先立った家族や友人に会えることへの希望ですね。ここに至ると「死を待ち望む様になる」というのです。「死の恐怖」からは完全に脱出している様に感じますね。

生きがい論のあの世観とは
 「死とは何か?」「死んだらどうなる?」「あの世はあるのか?」
 きっとこの命題は「死の恐怖を先制する」重要な回答の一つになるでしょう。
 20年ほど前でしょうか。当時福島大学に飯田先生という「生きがい論」の研究者がおられ、「生きがいの創造」という著書はベストセラーになりました。ご存じの人も多いと思ますが、この生きがい論で示されたエッセンスは今も私のがん診療の中でとても役に立っています。
 以下にその要約をご紹介しましょう。
 「あの世はあるか?」に対する解答は3つです。
 1,ある 2,ない 3,分からない です。
 現代、あの世が証明されていない以上、3が正しいのかもしれません。問題は、この問いをされた人(患者)は、それで納得できるか?ですね。「分からない」から不安と恐怖が襲ってくるんですよ。つまり、3は回答の一つですが、患者にとっての正解かは難しいところです。2も同じ可能性がありますね。「死んだらお終い。何もかも全てなくなる、だから「安心」なのか?「不安」なのか?そもそも死んでお終いで安心と言う人は最初から医療者にこんな質問をしませんからね。それも正解の一つですが、中には1,あると言う回答の中に「生きがい」「希望」を見つける人もまたおられます。多くの患者さんは、死後の世界があることに一縷の希望?を持とうとしている人がいて、そういう人が、「あの世はあるか?」という質問に応えてくれそうな人にこの質問をするわけです。相手は医療者とは限りません。さあ、皆さんにとって大切な人から、今、あなたの目を見てこの質問をされたら、皆さんは何と応えられますか?
 でもね実はね、正解はあるんですよ。
 え?と思われるかもしれませんが、どこにあるか?それはね質問者の中にあります。基本的にすべての質問は、質問する側が正解を持っています。しかも、その人にとっての正解なんですがね。だったら、どうしたらよいのか?
 そうです、オウム返しでその人に聞けば良いんですね。「あなたはどう思う?」と。多くの場合は、それでその人にとっても正解が語られます。こちらはそれを聞けばよいのですが、やはり、経験上医療者も自分なりの死生観や世界観、人生観、病気観から健康観まで持っておいた方がこうした現場でどぎまぎしません。と言いますか、そこを見越して、患者さんはあなたを選びます。自分の信念を後押しして欲しいのです。

 さて、話を元に戻して、飯田先生の生きがい論から見えてくる死生観では、死後に世界があるという立場で論理が構成されます。これは既に昨年にも本通信で紹介いたしましたが、再掲しますね(詳細はフナクリ通信2024年7.8月153号を参照下さい)。(図2)


図2 「あの世とこの世の仕組み」生きがいの創造より
解説)あの世の研究者が欧米にはいる。それは1,前世を記憶する子供たちの研究、2,臨死体験者の研究、3,退行催眠による研究により、あの世の仕組みが明らかになってきたという。それらはどれも仮説であるが、その仮説をもとに語られるあの世は実に納得のいく世界観が語られると私は感じる。それを簡単に紹介する。これも仮説である。
 私たちはあの世とこの世を往還する存在である。この世の死はあの世の生である。死の瞬間の移行はスムースで三途の川はあり、その向こう側(彼岸)には懐かしい先立った親や友人もいる。そこで在りし日の思い出話をした後に閻魔様に接見する。閻魔様は光の天使である。ここで、ただ3つのことだけを質問される。①十分学んできましたか?②十分愛してきましたか?③使命を果たしてきましたか?この3つだけ。赤裸々の自分の魂は
嘘をつくことなく、自分の人生を生まれてから死ぬまでの一切合切をリアルに追体験
させられる。しかも、相手がある場合は相手の気持ちも自分の事としてリアルに体験する。自分のした言動でいかに傷つき苦しんだかも全て体験させられる。追体験が終わる頃、殆どの魂はその現実に深く反省し、後悔し慚愧の涙を流すという。そこで、閻魔様は訊く。「あなたの人生は如何でしたか?」ほとんどの魂は、深く恥じ入り、心の底から後悔と反省の末、もう一度やり直したいと切願するという。閻魔様は「では、その願いが成就できるような、人生シナリオを時代、環境、性別や性格まで自分で計画してください」と言われるという。そして、その準備が整って、皆さんは(年齢)年前に、今の場所、環境へ希望と計画(志)を持って生まれたという。ただ、空気に触れると同時にほとんどの計画は忘れ去る。ただ、計画した事態(事件)は予定通りあなたの身に降りかかる。それがあまりに厳しい試練、困難、苦しみ、病であったとしてもである。そんな計画など忘却の彼方のあなたは悲嘆にくれる「冗談じゃない!なぜなんだ・・」と言って。しかし、本当はあなたが自ら計画をした出来事でしかない。しかも、自ら予定した計画だから、過去世の体験よりは少しハードルを上げている・・が、乗り越えられない試験問題は自らに課すはずがない。今、目の前の試練が余りに厳しいと感じているあなた、それにチャレンジできるほど進化した魂だという事になる。乗り越えられ道は必ずある。

 これは、「あの世はある」と「人は輪廻転生する」という死生観を前提としますが、飯田先生はこれも仮説とし、今、困難の最中にいる人に伝えることで、その人の中から「生きる希望」が湧き出て人生を前向きに生きようとする場合があると言います。これこそ、「生きがいの創造」なんですね。
 私自身も、がんで苦悩される患者さんに、「これは元福島大学の飯田先生という科学者の意見ですが・・信じるかどうかと言う話ですが・・」と前置きしてお話してきました。反応は様々でしたが、「生きる勇気が出た」「頑張ってみます」とか「死ぬのが怖くなくなった」等という意見まで聞けました。少なくとも、この話で「死の恐怖が軽減できた」と言うなら、これも一つの「死の恐怖を先制した」ことになるのではないかと思うのです。

生きがいの創造から死を読み解く
 次に別の見方からこの「死の恐怖の先制」について考えてみたく思います。
 それは、私の在宅末期医療からのメッセージから読み解く方法です。最後の最期を人はどう生ききられていくのか?を知る事、見る事はこれから逝く人にとってとても参考になるし、時に勇気づけてくれると私は感じてきました。
 2,000人以上を在宅で看取らせて頂き、その多くの姿から教えてもらった生ききり方のエッセンスは延いては「人の命とは何か?幸せの本質とは何か?」を示してくれました。その姿を見るときに、私は生ききる勇気を貰うからです。
 こうしたまさに厳しい病気がありながらも、その人らしく生ききられた姿にはまさに「死の恐怖を先制する」説得力を秘めているのではないかと思うからです。

自分の人生に自分の死はあるのか?
 さて、人は「生ききられた」先に死があることは間違いありません。患者である私たちにできることは「生ききる事」であり、この私の意識の限界もそこまでです。死後の意識があるのかないのかを判定することは難しいですね。その先を看取った遺族から見たときに「故人の死」が位置付けられ、「故人の死後」という時間があるに過ぎません。そうです、私たちにあるのは生きている意識の限界までなんですね。今を生きている私たちには自分の死の体験はできないという事なんです。ただ、皆さんにとっての大切な家族や親族、友人を看取るときに、自分が感じた「悲しみと苦しみ、辛さ」という体験を自らの死にも重ねて、きっと自分も苦しく辛いに違いないと想像しているだけなんですね。

 繰り返しますが、自分は自分の死を体験できません。できる限界は「生ききる事」だけです。だから、自分は「生ききる事だけ」を考えればよいのです。
(ただし、先の生きがい論の研究からは、実は死の瞬間は苦しみなく、体から離れて存在したという証言が多くあります。あたかも夜寝るが如くだと言います。ふと気が付くと、自分の亡骸の天井くらいの場所にいて、事の流れを見守っているようです。もう一度自分に入ろうしてもバリアがあって入れない。しかし、そこにいる人が何を感じ思っているかは手に取るように分かると言います。)

人が生ききった姿とは
 私は最後の最期を自覚したあるがん末期の男性が死の直前に取った「ガッツポーズ」が忘れられません。きっと今逝く人は丁度マラソンの最期、ゴールテープを切る瞬間をまさにこの「やったぞ」という「ガッツポーズ」で終わっていくのではないか?そう思うのです。
 そして沢山の生ききり方を看取らせて頂く中で、その後も含めその生きざまが後の人へのメッセージとなっていることが分かりました。
 そして、母親の死から学んだ境地。母は62歳で白血病を発症し、抗がん剤治療などもろもろ手を尽くしました。「もって6か月、最後は血小板減少による脳卒中でしょう」と血液内科の主治医の言葉通り、6か月後に脳卒中を発症したのです。当時私の勤務した病院で、私が主治医として治療にあたりましたが、なす術はありませんでした。私の手の中で治療を中止しお袋の死亡診断をしました。本当にいい人で大好きでした。
 そのお袋が生前クリーンルームでしたためた詩があります。
「今朝もまた、さめて目が見え手が動く、ああ極楽よこの身このまま」
 人は最期を自覚すると朝、目が覚める事、目が見える事、手が動く事を「極楽」と感じる・・そういう境地に至るのだと教えてくれたと思っています。
 こうした思い出はあたかも「死が教えてくれた幸せの本質」のように私には感じられるのです。

在宅看取りからの9つのメッセージ
 沢山の看取りから多くの命のメッセージを貰いましたが、それらをまとめると9つになります。
「生き様は死に様」
 人は生きてきたように死んで逝く。死に様だけを切り取っても意味がない。生ききった末を「死」というに過ぎない。あるのは永遠の今だけであり、それは今の自分が選択し決め、創造できることでもある。
「自分の命は自分だけの命ではない」
 命とは生き方、大切にしたもの。
 自分の生き方は、この世を去った後も愛する者たちによって継承される。
 命は愛するゆえに継承され広がってゆく。
「自分しか担えない使命がある」
 自分の生き様(自分は何を選び、何を大切にして生きようとしてきたか)そのものが実は、自分にしかできず担えない「使命」ではなかろうか。この使命を生ききった末に「形」ができる。どんな形であろうが、今の自分の形は自分自身が願い続けた結果であり、自分にしかできなかった証である。
「にもかからわらず覚悟を持つ」
 人生は全て選択の連続である。100%の選択はなく、一方を選ぶとは同時に他方を選ばない選択でもある。選択するとは、常に他方を放棄するという「覚悟」とその結果を任せきる「托身」が必要である。この托身が出来ないと「後悔」となる。覚悟とは捨てる決意である。
「人生最後の言葉はある」
 色々な生き様があるが、なぜか最後の言葉は限られる。その言葉とは「ごめんね」「ありがとう」「また逢おう」「愛してるよ」「さようなら」の5つである。これらの言葉は「人生の出来事」への祈念や感謝である。
 例え失敗や挫折、恨みの多い人生であってもこの一言で許される。見送る側のも最期の言葉はある。「後は任せて」。これを「引導」という
「人はただ有るだけでも意味のある存在である」 
 Kくん。先天的障害で大脳がない。かろうじて呼吸ができたが意識はない。種々医療の甲斐なく1歳2か月で在宅で亡くなった。ご両親は言った。「愛とは、家族とは、生きるとは、命とは何かをKは教えてくれた」と。しかし、Kくんは一言も何も話してはいない。「人はただ存在するだけでも意味がある」からであると思われた。          
「病気にも意味がある」
 苦痛を除くために医療は発展した。しかし、「苦痛」の代表である「病気」は回避出来ても根絶は困難で、況や「死」は宿命であり除くことは不可能である。常に「死なせない医療」は敗北した。     しかし、無意味ではなかった。病を通して、死を乗り越えて人はより大きく成長した。病は困苦であるはずなのに「感謝」すらされた。
 病気にも意味があるからである。
「死は恩寵でもある」
 誰も死にたくない。しかし死ぬ事より「痛み」の方が辛い。しばしば「死」は厳しいがんによる痛みを終わらせてくれる。その後家族は、やっと本人が楽になったとホッとされることがある。残された家族にとって大切な人の「死」は悲嘆の骨頂であるが、同時に苦しみをとる最高の「恩寵」でもある。
 1人称の死は「死ぬことのない魂」にとって最高の体験の一つなのかもしれない。
 そう思う時、本当は「死は最高の恩寵である」と思えるのです。
「最後の最期、人は幸せの境地という領域に到達する」
 62歳、白血病末期。最後に母はこう歌を詠んだ。「今朝もまた、さめて目が見え手が動く、ああ極楽よこの身このまま」。平凡な1日の始まり。命の限りを自覚すると、人は自ずとこの境地に入るのではないか?「生きていた」のではなく「生かされていた」への気づき。それはだれにでも訪れる最期の自然の姿に見えた。

在宅医療からのメッセージのまとめ
こうしてみると死=恐怖とは全く反対ともいえるかけ離れたメッセージが生ききられたあまた魂の道行きから感じ取らせて頂けます。

この9つのメッセージをまとめて1つの文章にすると②のようになります。

 こうしてだれもが最期を自覚すると「死を受け入れる」という姿に沢山遭遇してきました。やっと向こうに行ける。今まで見送ってきた親や親族、仲の良かった友人と自分も同じになる。誰も死にたい人などいません。しかし、最後の最期を自覚する時にはなぜか生きたいと言うより、やっとこれでみなと同じになれるという安心感があるかの如く、その境地へ至るように思うのです。いや正確には、私の目から見ると最後生ききられるそのところに黄金色のゾーンがあり、その中へ患者さんが入っていく様な感じなのです。
 この時に私は感じます。それは生と死の統合です。生きてよし、死してまたよしの境地ですね。そこにはすべてへの感謝しかない、がんにすら感謝されるのです。
 なんと人間とはすばらしい存在なのでしょうか。
 ここまでくると、そもそも「死の恐怖」があるのか?と思います。生きている限り、死に恐怖という本能があるからこそ、何とかしようと努力します。そこにきっと意味がある。そもそも「自分の死」は体験できない。生ききるしかない。最後は、黄金の境地が待っているから、精一杯あなたらしく生ききるだけ。どうもそれだけでいいのです。その先は極楽です。しかし極楽が分かったら死にたがるので、死を恐怖と感じるように本能が与えられている。だから、死なずに生きようと努力する。生きようとするから生ききれる。
 私はがんと共に歩んできました。ついに1人称のがんまで体験し、実は「がんを先制する」「しない」はどちらでも良いと思う様になってきました。
 大事な事は、それを味わうために生まれてきた。その出来事にどう翻弄され、どう苦しみ、どう対処したか・・成功も栄誉も失敗も挫折も困苦もすべてOKなのです。人生の目的は起こるすべてを味わい尽くすこと。今を生ききる事。今尽、イマジン。それしかないのですよ。
 でも、先人を見ていて、生ききるコツ、大往生のコツはあるようです。それを以下に紹介しましょう。

大往生のコツ
どうぞ、この1)~5)を信条に今を生ききってくださいね。今尽、イマジンです。

1)できるだけ、五か条(良眠、良食、笑い、加温、運動)の習慣で生きること
2)できるだけ、痛み(肉体的・精神的・社会的・スピリチュアルペイン)を減らすこと
3)できるだけ、自分らしくあること(すべき事ではなく、したい事を上手にする)
4)できるだけ、あなたの長生きをすること(生ききれど、執着せず。寿命は個人差あり)
5)毎日祈りの時間を持つこと
 船戸の場合、読経(般若心経、バジラサットバ)の後以下のスートラを毎日唱える
  一、私は全ての命と繋がっていることを知っています
  二、私は全ての命に志があることを知っています
  三、私は死が最高の恩寵であることも知っています
  四、私は全ての命に「ごめんね、ありがとう、愛しているよ、また会おう、
    さようなら」と言ってこの肉体を離れます
  五、私は全ての命と一つです

 死の恐怖の先制は所詮無理である。
 必ずできるから、今あなたはいる。

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